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  • 2024.03.04

映画ドラえもん「のび太の地球交響楽」/ 灰谷健次郎「兎の眼」- 副院長より28


  娘と映画ドラえもん「のび太の地球交響楽(シンフォニー)」観てきました。副院長の森豊和です。ドラえもんは最も分かりやすく、かつ優れたサイエンス・フィクション(SF)の一つで、SFとはコミュニケーション、気持ちを伝えることを説明するための、とても分かりやすい芸術ジャンルの一つだと思っています。精神科とも密接な関りがあり、統合失調症や解離症等、精神疾患はたびたびSFのテーマとして取り上げられます。精神科医や精神分析が扱われることもしばしば。

今回のお話は、「音楽のエネルギーを取り戻すことで世界を救う」というもので、コミュニケーション・ツールとしての音楽が作品テーマであり、結末のカギにもなっています。

大魔王、エイリアン、独裁政権といった、SF的にわかりやすい設定の敵は出てきません。音楽の星ムシーカと地球を襲った「宇宙生命体ノイズ」は、音楽とそれに伴う生命エネルギーを惑星ごと奪いつくしてしまうのですが、それ自体が意思をもっているわけではなく、おそらく人の心の昏い部分から生まれた存在です。4万年前に音楽の星ムシーカが滅びたのは、権力者が音楽エネルギーを独り占めしようとして、人々に演奏を禁止したため、無音になった星にノイズが侵食していったからでした。

話の発端は、小学校でリコーダーが上手く吹けず、音楽なんてなくなればいいと願ったのび太が、秘密道具 あらかじめ日記に「明日、音楽が無くなる」と書いたことでした。混乱する世界に驚いたのび太は、日記を破って予定をキャンセルしたのですが、そのわずかな隙にノイズは地球に広がり、あらゆる音楽を奪い、生命活動を停止させようとします。

ノイズの一体一体は弱く、ジャイアンに潰されてしまう程度のちっぽけな存在です。しかし人間の弱いよこしまな心がある限り無限に増え続ける、私たちひとりひとりの心が招く災厄、ダーク・フォースです。ちょうど、村上春樹のリトル・ピープルと栗本薫のタナトス生命体を合わせたような存在で、そういえば両作家は、音楽を作品の重要なテーマとしています。

ところで、作中、前半、のび太たちは楽器演奏によって、ファーレの殿堂と呼ばれるムシーカ星人の遺跡を蘇らせていきます。その際に必ずしも上手な演奏がよいわけではありません。のび太の調子っぱずれのリコーダー、悲しげで単調な笛の音が、むしろ、遺跡を守るロボットたちの悲しい気持ちに寄り添うシーンがあります。

理屈で説得され励まされるより、決して上手ではないような音楽が、心にぴったり来ることがあるかもしれません。なんといっても、歌や鳴き声といった音は、人間だけでなく動物のコミュニケーション・ツールです。人類も、まず言葉ではなくメロディーの調子で意思を伝えあっていたはずですし、言葉より嘘はないのです。村上春樹はよく、言葉を紡ぐにあたっても、リズム感、音楽的なセンスを大切にすると言っていますが、当たり前なのです、音楽は言葉より上位にあるものですから。言葉が無くなっても感情はなくなりません。音楽を無くすことはその人らしさを損なうことです。



 言葉について考えるうえで、私はいつも、神話伝承、物語、児童文学を重視します。「ナルニア国物語」の著者C・J・ルイスは「子どもの本の書き方三つ」(『オンリーコネクト2』所収)というエッセイの中で、「私が子ども向けのファンタジーを描くのは、私が書きたいものを書いていくと結果的にそうなってしまうのだ」と言っています。

そして一番大事なことは、「子どもたちに必要なモラル」を書くのではなく、「自分自身にとって必要なモラル」を書くべきだと言います。モラルとは信念、大切なことと読みかえてもいいと思います。上から目線で、君たちに必要なことを教えるよ、というのではなく、私が大事だと思うことを、君たちと共有したいというスタンスです。それは私たちが絵本を子どもに読み聞かせする際にも、ドラえもんやパウパトロールのアニメを一緒に観るときも同じだと思います。

そして「書く値打ちのあるモラルは唯一つ、作者の全人格から避けがたくも、にじみ出してくるものだけ」であり、わざわざ後から考えて加えたモラルは、あなたの意識の上っ面だけをかすめとった陳腐な、いえ、それどころか、いつわりのものにさえなりかねない」と綴っています。それが大人向けの小説でも、子ども向けの物語や絵本であっても、すぐれた作品の多くは、上記の原則に適っているはずです。


 
  こういった視点で特に絵本や児童文学について書いていきたいです。今回はまず、灰谷健次郎「兎の眼」について記します。私が子どもの頃、教科書に同作家の「ろくべえまってろよ」が掲載されていて、ずっと印象に残っていて、「兎の眼」は角川文庫 夏の百冊によく選定されていて気になっていました。今読むと社会背景が若干古いところはありますが、本質的な部分では、現代でも通用する普遍性と強靭さを感じました。

この本は、新任教師の小谷芙美が、小学生たちとの触れ合いの中で成長していく物語です。今日的な視点で言えば、複雑な家庭環境があったり、知的障害や自閉スペクトラム等の、何かしらの発達の問題を抱えた児童についての話です。

最初に、問題となる鉄三という少年は、教室のカエルを引き裂いて殺してしまいます。その残酷な行為には理由があって、鉄三が瓶に入れて飼っていたハエを、同級生が知らずにカエルの餌にしてしまったからでした。小谷先生は、鉄三の怒りの理由を知り、虫博士の彼が研究するハエについて自身でも調べるうちに、嫌われるハエの境遇に感情移入します。鉄三が自分を重ねたハエに、さらに自分自身を重ねます。

その次に、みな子という知的障害の少女を一時的に普通学級で預かる話があります。(今日的な視点で言えば、障害の明らかな児童を普通学級に混ぜるのは好ましくありません。大人が丁寧に対応すべきです。ですがこれは約50年前のフィクションですのでご容赦ください。)

先生も子どもたちも、みな子さんを世話してあげようと思うと苦労するのですが、ある生徒は、みな子さんのすることを何でも許して対等に接します。そうすると不思議にみな子の問題行動は減っていきます。さらに興味深いことに、同じく問題児の鉄三が、みな子と接するときは、別にみな子の世話をするわけでもなく、そばに一緒にいるだけですが、どこか通じ合い、みな子も静かに過ごすのです。

子どもたち、特に大人に心を開かなかった鉄三も、小谷先生と自然と心を通わせるようになります。たどたどしい言葉や素振りでですが、それで十分なのかもしれません。また、生徒の親たちから教育方針を問われた小谷先生は「自分のためにやっている」と答えます。それは、上に述べた「私が大事だと思うことを、子どもたちと共有したいというスタンス」でしょう。

彼女と志を等しくする同僚の先生たちもいます。物語の後半でごみ処理場の移転問題が起こり、貧しい家庭が生活できなくなるため、子どもたちが彼らなりに抵抗します。そのことで「どんな教育をしてるんだ、なんて迷惑な子たちだ」と責められて、ある先生が「別に・・・ふつうの良い子です」と答えるシーンが私は好きです。社会の都合でいえば不良児童かもしれないが、本当に人間に必要なモラルという視点では、良い子たちだと言っているのでしょう。

現実には、そんな理想論通りにはいきません。あくまで物語の中の話です。でも、理想を胸に抱くのは悪くはありません。今回のドラえもんの映画に出てきた宇宙生命体ノイズのようなダーク・フォースは、人類が存続する限り無くなりません。私やあなたの心のどこかに巣くっていて、ときにひどいあやまちを犯させます。

そんな時に、分かりやすい邪悪な敵に責任転嫁するのではなく、自分の中にいる卑小な悪や欠陥、問題を認めなくてはならない。とても難しいことですが、考え続けなくてはいけいないことだと思っています。クラスに溶け込めない鉄三も、リコーダーがうまく吹けず音楽が無くなればいいと願ったのび太も、私自身なのです。

  娘と映画ドラえもん「のび太の地球交響楽(シンフォニー)」観てきました。副院長の森豊和です。ドラえもんは最も分かりやすく、かつ優れたサイエンス・フィクション(SF)の一つで、SFとはコミュニケーション、気持ちを伝えることを説明するための、とても分かりやすい芸術ジャンルの一つだと思っています。精神科とも密接な関りがあり、統合失調症や解離症等、精神疾患はたびたびSFのテーマとして取り上げられます。精神科医や精神分析が扱われることもしばしば。

今回のお話は、「音楽のエネルギーを取り戻すことで世界を救う」というもので、コミュニケーション・ツールとしての音楽が作品テーマであり、結末のカギにもなっています。

大魔王、エイリアン、独裁政権といった、SF的にわかりやすい設定の敵は出てきません。音楽の星ムシーカと地球を襲った「宇宙生命体ノイズ」は、音楽とそれに伴う生命エネルギーを惑星ごと奪いつくしてしまうのですが、それ自体が意思をもっているわけではなく、おそらく人の心の昏い部分から生まれた存在です。4万年前に音楽の星ムシーカが滅びたのは、権力者が音楽エネルギーを独り占めしようとして、人々に演奏を禁止したため、無音になった星にノイズが侵食していったからでした。

話の発端は、小学校でリコーダーが上手く吹けず、音楽なんてなくなればいいと願ったのび太が、秘密道具 あらかじめ日記に「明日、音楽が無くなる」と書いたことでした。混乱する世界に驚いたのび太は、日記を破って予定をキャンセルしたのですが、そのわずかな隙にノイズは地球に広がり、あらゆる音楽を奪い、生命活動を停止させようとします。

ノイズの一体一体は弱く、ジャイアンに潰されてしまう程度のちっぽけな存在です。しかし人間の弱いよこしまな心がある限り無限に増え続ける、私たちひとりひとりの心が招く災厄、ダーク・フォースです。ちょうど、村上春樹のリトル・ピープルと栗本薫のタナトス生命体を合わせたような存在で、そういえば両作家は、音楽を作品の重要なテーマとしています。

ところで、作中、前半、のび太たちは楽器演奏によって、ファーレの殿堂と呼ばれるムシーカ星人の遺跡を蘇らせていきます。その際に必ずしも上手な演奏がよいわけではありません。のび太の調子っぱずれのリコーダー、悲しげで単調な笛の音が、むしろ、遺跡を守るロボットたちの悲しい気持ちに寄り添うシーンがあります。

理屈で説得され励まされるより、決して上手ではないような音楽が、心にぴったり来ることがあるかもしれません。なんといっても、歌や鳴き声といった音は、人間だけでなく動物のコミュニケーション・ツールです。人類も、まず言葉ではなくメロディーの調子で意思を伝えあっていたはずですし、言葉より嘘はないのです。村上春樹はよく、言葉を紡ぐにあたっても、リズム感、音楽的なセンスを大切にすると言っていますが、当たり前なのです、音楽は言葉より上位にあるものですから。言葉が無くなっても感情はなくなりません。音楽を無くすことはその人らしさを損なうことです。



 言葉について考えるうえで、私はいつも、神話伝承、物語、児童文学を重視します。「ナルニア国物語」の著者C・J・ルイスは「子どもの本の書き方三つ」(『オンリーコネクト2』所収)というエッセイの中で、「私が子ども向けのファンタジーを描くのは、私が書きたいものを書いていくと結果的にそうなってしまうのだ」と言っています。

そして一番大事なことは、「子どもたちに必要なモラル」を書くのではなく、「自分自身にとって必要なモラル」を書くべきだと言います。モラルとは信念、大切なことと読みかえてもいいと思います。上から目線で、君たちに必要なことを教えるよ、というのではなく、私が大事だと思うことを、君たちと共有したいというスタンスです。それは私たちが絵本を子どもに読み聞かせする際にも、ドラえもんやパウパトロールのアニメを一緒に観るときも同じだと思います。

そして「書く値打ちのあるモラルは唯一つ、作者の全人格から避けがたくも、にじみ出してくるものだけ」であり、わざわざ後から考えて加えたモラルは、あなたの意識の上っ面だけをかすめとった陳腐な、いえ、それどころか、いつわりのものにさえなりかねない」と綴っています。それが大人向けの小説でも、子ども向けの物語や絵本であっても、すぐれた作品の多くは、上記の原則に適っているはずです。


 
  こういった視点で特に絵本や児童文学について書いていきたいです。今回はまず、灰谷健次郎「兎の眼」について記します。私が子どもの頃、教科書に同作家の「ろくべえまってろよ」が掲載されていて、ずっと印象に残っていて、「兎の眼」は角川文庫 夏の百冊によく選定されていて気になっていました。今読むと社会背景が若干古いところはありますが、本質的な部分では、現代でも通用する普遍性と強靭さを感じました。

この本は、新任教師の小谷芙美が、小学生たちとの触れ合いの中で成長していく物語です。今日的な視点で言えば、複雑な家庭環境があったり、知的障害や自閉スペクトラム等の、何かしらの発達の問題を抱えた児童についての話です。

最初に、問題となる鉄三という少年は、教室のカエルを引き裂いて殺してしまいます。その残酷な行為には理由があって、鉄三が瓶に入れて飼っていたハエを、同級生が知らずにカエルの餌にしてしまったからでした。小谷先生は、鉄三の怒りの理由を知り、虫博士の彼が研究するハエについて自身でも調べるうちに、嫌われるハエの境遇に感情移入します。鉄三が自分を重ねたハエに、さらに自分自身を重ねます。

その次に、みな子という知的障害の少女を一時的に普通学級で預かる話があります。(今日的な視点で言えば、障害の明らかな児童を普通学級に混ぜるのは好ましくありません。大人が丁寧に対応すべきです。ですがこれは約50年前のフィクションですのでご容赦ください。)

先生も子どもたちも、みな子さんを世話してあげようと思うと苦労するのですが、ある生徒は、みな子さんのすることを何でも許して対等に接します。そうすると不思議にみな子の問題行動は減っていきます。さらに興味深いことに、同じく問題児の鉄三が、みな子と接するときは、別にみな子の世話をするわけでもなく、そばに一緒にいるだけですが、どこか通じ合い、みな子も静かに過ごすのです。

子どもたち、特に大人に心を開かなかった鉄三も、小谷先生と自然と心を通わせるようになります。たどたどしい言葉や素振りでですが、それで十分なのかもしれません。また、生徒の親たちから教育方針を問われた小谷先生は「自分のためにやっている」と答えます。それは、上に述べた「私が大事だと思うことを、子どもたちと共有したいというスタンス」でしょう。

彼女と志を等しくする同僚の先生たちもいます。物語の後半でごみ処理場の移転問題が起こり、貧しい家庭が生活できなくなるため、子どもたちが彼らなりに抵抗します。そのことで「どんな教育をしてるんだ、なんて迷惑な子たちだ」と責められて、ある先生が「別に・・・ふつうの良い子です」と答えるシーンが私は好きです。社会の都合でいえば不良児童かもしれないが、本当に人間に必要なモラルという視点では、良い子たちだと言っているのでしょう。

現実には、そんな理想論通りにはいきません。あくまで物語の中の話です。でも、理想を胸に抱くのは悪くはありません。今回のドラえもんの映画に出てきた宇宙生命体ノイズのようなダーク・フォースは、人類が存続する限り無くなりません。私やあなたの心のどこかに巣くっていて、ときにひどいあやまちを犯させます。

そんな時に、分かりやすい邪悪な敵に責任転嫁するのではなく、自分の中にいる卑小な悪や欠陥、問題を認めなくてはならない。とても難しいことですが、考え続けなくてはいけいないことだと思っています。クラスに溶け込めない鉄三も、リコーダーがうまく吹けず音楽が無くなればいいと願ったのび太も、私自身なのです。