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  • 2023.08.08

窓ぎわのトットちゃん(心理療法と物語2)- 副院長より16

 こんにちは。副院長の森豊和です。7月半ばより猛暑が続いていますね。日中活動は本当に無理せずやり過ごしてほしいです。

 私は古典や一般書、児童書の名著、ベストセラーを集めて病院内私立「図書箱」を作っています。外来の患者さんにも自由に借りていってもらうようお願いしていますが、最近、同時期にある作品が職員や患者さん複数に借りられたので、その本のことを書きたいと思いました。それは、黒柳徹子さんの自伝「窓ぎわのトットちゃん」(講談社青い鳥文庫)です。
小学校での体験を描いた作品にふさわしく、二人の対話のような形で書いていきます。


「窓ぎわのトットちゃん」面白かった。(2023年の)冬にアニメ映画になるみたいですね。
≫ それは良かった。今年映画になるなんて、ちょっとした共時性(シンクロニシティ)かも。黒柳徹子さんが通っていたユニークな小学校「トモエ学園」での出来事を描いたノンフィクション、なんだけど、実際の手触りは限りなくファンタジーの世界だと思います。

校長先生の言う「君は、ほんとうはいい子なんだよ」(P243)って、確かにファンタジーの世界の魔法の呪文みたいですね。初めてトモエ学園に行った日、「なんでも話してごらん」と言ってトットちゃんの話を4時間も聴いた「校長先生」(P29)、いいなあ。普通なら、話を途中でやめさせそうだけど、彼は全く気にせず最後まで聴いてくれて。

≫ 最初から校長先生もトットちゃんを大好きになったって。子どもの話を聴くべきだから聴くのではなく、対等の友人として興味深く聴いていたみたいだね。

この対応が、トットちゃんが校長先生に心を開くきっかけになったと思います。トットちゃんは周りから冷たい目で見られたり疎外感を感じる事もあったそうだから。

≫ 決まったルールで管理された小学校では、トモエ学園のように自由にふるまえないし、そもそも校長先生が対等に接してくれるなんてありえないものね。校長の信念はシンプルに、「どんな子も、生まれたときは、いい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人の影響でスポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性ある人間にしていこう」(P331)というもの。

トットちゃんは、普通の大人からみたら厄介で迷惑な子どもだけど、トモエ学園の生徒や校長先生、トットちゃんの両親は他の人と違った見方だから、いい子だと愛されていたんだと思います。子どもは大人よりも周囲の気持ちを敏感に察するのかもしれない。自分も気をつけないと。

≫ その気持ちが大切だし、それは、あなたの気持ちだって一緒なんです。尊重されるべきなのは。

ありがとうございます。「海のものと山のもの」(P51)では、お弁当の時間、このおかずは山のものか海のものかで話が賑わって楽しげな描写が良かったです。

≫ 海!山!って言いたくなるね。梅干しは山、海苔は海とか。子どもたちの弁当におかずを足す校長も楽しそうです。でも、「もどしとけよ」(P73) では、逆に校長は生徒の行動に何も介入しない。

トイレに落とした財布を拾おうと、せっせと汲み取り口をさらうトットちゃん。それを見かけた校長先生は「ちゃんともどしとけよ」と言うだけ。この一言は、トットちゃんは最後まで責任持って戻すことはできるよね?という校長先生の子どもに対する信頼とおおらかさが出ていて、好きなセリフです。

≫ なんでも危ないからとやめさせるのではなく、子どもの立場を尊重する。これはものすごく難しい。トットちゃんはトイレで下をのぞき込んで物を落としてしまう癖があって、お母さんが何度言っても治らなかった。でも、この後ふしぎとぴたりと下を覗かなくなった。財布は見つからなかったけど校長先生から大切なものを代わりにもらった。校長先生は小学校の生徒一人一人を、「ちゃんと人格を持った人間として、扱ってくれた」から(P78)

「プール」(P93)でも、校長先生は、障害のあるなしにとらわれず、自由にあそばせてくれます。運動会(P169)でもそう。校長先生オリジナルの競技が多いのは、ハンディキャップがある高橋くんが活躍するため。高橋くんはこの運動会がきっかけで、自分にすごく自信がついたと思う。

≫ 単純に優劣がつかない形で評価していますね。がんばってる子たちがみんな楽しめるように、校長はたえず考えている気がします。

それに、全体ではなく一部の生徒のことを考えて、競技を決めるなんて驚きました。

≫ 「普遍的なテーマを考えるためには、常に個人的な問題から出発しなければならない」、みたいなことを村上春樹がよく言っていますが、障害を持った子ども一人を幸せにしないで、なぜ多くの子どもを喜ばせることができるのか。実際トモエ学園の子どもたちは高橋君の活躍を喜んでいるように見えます。木の皮を売りつける詐欺師の話「元気の皮」(P265)、覚えてますか? 

かじってみて苦かったら病気が分かるという木の皮を買った話ですよね。私もあの話好きです。校長先生は「騙されてるよ、もう買ってはダメ」とは、あえて言わず、トットちゃんたちはどんな行動をとるか見守ってましたね。
恐らく、トットちゃんがみんな元気かどうか調べる邪魔をしたくないから、校長先生は何も言わなかったのかなと。

≫ それは詐欺だとすぐ教えるのではなく、買わせてみて、トットちゃんに考えてもらう。結果的にみんなが幸せだったから良かったし、後々よく考えればインチキ品を売る人だったとトットちゃんにも分かるだろうし。インチキだったとしても安価でみんなが喜んだんだから結果オーライだし。子どもを見守るのって難しいです。できることはやらせて、本当に危ない時は介入する。でも全部介入する方が楽なんですよね。


「大冒険」(P105)は、トットちゃんと小児麻痺の泰明くんの木登りの話。トットちゃんの純粋な善意が伝わりました。

≫ トットちゃんが本当に良い子だと伝わるし、本当の友情や愛情ってこういうことだと思います。足の不自由な彼をひっぱりあげるシーン。
「でも、泰明ちゃんは、もう、トットちゃんを信頼していた。そして、トットちゃんは、自分の全生命を、このとき、かけていた。」(P110 )
なんて描写は、どんなラヴ・ストーリーより美しい。誤解を恐れずに言えば、これ以上ないほど官能的だと思いました。
≫ ドアの向こうで生徒のために怒っている校長先生、トットちゃんが「あいたい」(P220)と思った。「校長先生は、ほんとうにわたしたちの友だちだと、いつもよりもっと強く感じたからだった」というトットちゃんの気持ちも同じです。

「しっぽ」(P215)ですね。明らかな身体障害がある高橋くんに対して「しっぽもあるかな?」と不適切な発言をした教師に、校長先生が声を荒げて怒る話。校長先生はなにげなく楽しく子どもたちと会話しているようでも、彼らを傷つけないように、トラウマになるようなことを言わないようにとても気をつけているんだなと思った。職員室ではなく、目の届かない台所で叱るよう配慮するけど、結局トットちゃんたちに見られてる…。

「おさげ」(P201)は、トットちゃんが、憧れのおさげをしたら、同級生に引っ張られて嫌な思いをした話。校長先生がその子に「女の子に親切にしなければ」と厳しく怒って、彼もちゃんと謝った。ちゃんと謝ることができた彼も良い子だと思いました。

≫ 「泣くなよ、君の髪は素敵だよ」と歯の抜けた口で、歯の浮くようなセリフを、気にせず笑顔でいう校長先生、たまらないですね。お父さんだってお兄ちゃんだってこんなこと言ってくれやしない。

「温泉旅行」(P123)の話で、トモエの子達が公共の場で落ち着いていたのは、「小さい子や身体が弱い人に優しくしなきゃいけない、人の迷惑をかけてはいけない」と学校で自然と学んだから。

≫ ここで再確認されるけど、普通の学校では暴れ回って問題児だったトットちゃんが、形式に縛られず自由に自主的に勉強できるトモエ学園では、とたんに落ち着いて座っていられるようになった。あるべき教育の姿について、とても示唆的です。

旅行中、船に乗っている時、船酔いする子が多い中、上級生の子が笑わせようと「オットット」と言いながら左右行ったり来たりするシーンが好き。彼なりの優しさが伝わる。

≫ おどけてる人を叱るだけの先生もいるけど、表面的な行動だけでなく、それが子どもたちにとって、どんな意味があるか、たえず考えたいですね。

「それからさぁー」(P153)で、昼食のときにひとりの生徒がみんなの前でお話ししようと決まったが、ある日、ある男の子が「しない、話は何にもない」と言い放つ。そんな彼に校長先生は叱らず、君は朝何したの?と尋ね、それがきっかけで彼はスラスラと話すようになる。

≫ 校長先生が、子供の気持ちを引き出すやり方はとても自然です。

校長先生はその際、面白い話をするのが偉いのではなくて話したいことが見つかったのが大切だと諭す。私たちは何かにおいて「結果」を重視するが、その過程をあまり気にしない。過程の中にこそ大切なことがあるんじゃないかって。

≫ 結果を重視した結果が、極端な話、大人がやる会社の粉飾決済や不正な取引ですからね。数字さえ合えばいいという。でもそのことで誰かが幸せになるわけじゃない。

「マサオちゃーん」(P196)で、お母さんがトットちゃんに、あの人は朝鮮人だからと言って区別せず親切にしてあげてと諭すのも印象的でした。もしお母さんが「〇〇人は悪い人」とか言うような人だったら、トットちゃんの性格や価値観はかなり変わってたかも。

≫ いつも「チョウセンジン」と罵られていたから、日本語の意味も分からず、それを罵り言葉だと思っていたマサオ君のことを思うと涙が出る。彼を心配して探す母親とともに、すごく映像でイメージされるシーンです。

「英語の子」(P277)もとても衝撃だった。当時、敵対していたアメリカ出身の子を迎えた校長先生はただものではない。その外国の子と、トットちゃん達が国や人種なんか気にせず「ビューティフル」と声を出すシーンは、きっと美しい光景だったでしょうね。子どもが人種を気にせず仲良くなれるのに、どうして大人のほうが気にしてしまうんだと鬱々する。

≫ 子どもの考えと大人のそれと、どっちが高尚かって、それはたぶん子どもの考え。多くの場合、大人は悪い意味での損得に基づいているから、残念だと思う。
≫ 「ヴァイオリン」(P302 )で、軍歌を演奏すればお金がもらえてトットちゃんに食べ物を買ってあげられる。けどお父さんは自分の芸術を戦争に利用されたくない。そんなお父さんの気持ちが分かるからトットちゃんは「平気!私もパパのヴァイオリン好きだもの」と言います。
≫ 「お見舞い」(P260 )で、小学生たちが負傷兵の慰問に病院に行って歌を歌う。皆が歌う歌を知らなかったトットちゃんが、誰も知らないであろう「トモエ学園の歌」を一生懸命歌う。その姿を見た兵士が涙を流すシーンも印象的でした。

「ボロ学校」(P250)で、トモエ学園の子達が「トモエは良い学校」と歌いながら学校周りを歩くシーン、校長先生は本当に嬉しかったんだろうなと思って、胸がきゅーんとなったし、「さようなら、さようなら」(P325)で、戦火で燃えているトモエ学園を見て「今度はどんな学校を作ろう」と息子に話しかける校長先生。戦争という辛い状況の中でも、教育に対する強い思いが消えなかった。戦争は色んなものを壊すけど、人の心の中にある大事なものは壊せないと思いました。

≫ 校長先生がトットちゃんにくれた大事なものは目に見えないし、誰にも壊せないから、それはあなたも、わたしも、みんなにとってもそうなんだと思います。

この本は、心のなかにある大事なものとか、自分の強みを壊されることなく、それを活かして自分らしく生きてというメッセージがあるのかもしれないと、今、思いました。

≫ トットちゃんは最初は1年生で公立小学校をクビになるくらい、他の人たちから否定されていました。子供のころの彼女は、ひょっとしたら、今なら知能の高い自閉スペクトラム症あるいはADHD、ないしその近縁の発達障害の傾向とみなされたかもしれません。が、発明王エジソンがそうだったように、当時の普通の教員からは1ミリも理解されなかったはず。ただ、困った子だとしかみなされない。
社会の無理解に悩まされることはあります。この作品でも、外国人差別、身体障がい者差別、もっと個々人の能力や性差にまつわる微妙な差別、いろいろな問題提示がされています。そういった問題は、その当時から現代までなかなか解消されません。
自分らしく生きることはなかなか簡単なことではないし、誰もがトットちゃんのようにやさしく強く、いられるわけではありません。
だから、この本の後書きで詳しく書かれているトモエ学園の仲間たちのような友達が必要です。それは簡単なことなようで、案外難しいのです。「なんだそんなことか!」と言える人は幸せです。家族や友人の中に、たった一人でもいい、信用して、いざというときなんでも相談できる相手がいてほしいです。

小児麻痺の泰明くんが死んだとき、トットちゃんが

「いつか、うんと大きくなったら、また、どこかで、会えるんでしょう。そのとき、小児麻痺、なおってるといいんだけど」(P295)

と思ったように
お互いが、この場所、この時間、置かれた環境、病気、あらゆる条件を越えて、仲良く助けあえるように。
 こんにちは。副院長の森豊和です。7月半ばより猛暑が続いていますね。日中活動は本当に無理せずやり過ごしてほしいです。

 私は古典や一般書、児童書の名著、ベストセラーを集めて病院内私立「図書箱」を作っています。外来の患者さんにも自由に借りていってもらうようお願いしていますが、最近、同時期にある作品が職員や患者さん複数に借りられたので、その本のことを書きたいと思いました。それは、黒柳徹子さんの自伝「窓ぎわのトットちゃん」(講談社青い鳥文庫)です。
小学校での体験を描いた作品にふさわしく、二人の対話のような形で書いていきます。


「窓ぎわのトットちゃん」面白かった。(2023年の)冬にアニメ映画になるみたいですね。
≫ それは良かった。今年映画になるなんて、ちょっとした共時性(シンクロニシティ)かも。黒柳徹子さんが通っていたユニークな小学校「トモエ学園」での出来事を描いたノンフィクション、なんだけど、実際の手触りは限りなくファンタジーの世界だと思います。

校長先生の言う「君は、ほんとうはいい子なんだよ」(P243)って、確かにファンタジーの世界の魔法の呪文みたいですね。初めてトモエ学園に行った日、「なんでも話してごらん」と言ってトットちゃんの話を4時間も聴いた「校長先生」(P29)、いいなあ。普通なら、話を途中でやめさせそうだけど、彼は全く気にせず最後まで聴いてくれて。

≫ 最初から校長先生もトットちゃんを大好きになったって。子どもの話を聴くべきだから聴くのではなく、対等の友人として興味深く聴いていたみたいだね。

この対応が、トットちゃんが校長先生に心を開くきっかけになったと思います。トットちゃんは周りから冷たい目で見られたり疎外感を感じる事もあったそうだから。

≫ 決まったルールで管理された小学校では、トモエ学園のように自由にふるまえないし、そもそも校長先生が対等に接してくれるなんてありえないものね。校長の信念はシンプルに、「どんな子も、生まれたときは、いい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人の影響でスポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性ある人間にしていこう」(P331)というもの。

トットちゃんは、普通の大人からみたら厄介で迷惑な子どもだけど、トモエ学園の生徒や校長先生、トットちゃんの両親は他の人と違った見方だから、いい子だと愛されていたんだと思います。子どもは大人よりも周囲の気持ちを敏感に察するのかもしれない。自分も気をつけないと。

≫ その気持ちが大切だし、それは、あなたの気持ちだって一緒なんです。尊重されるべきなのは。

ありがとうございます。「海のものと山のもの」(P51)では、お弁当の時間、このおかずは山のものか海のものかで話が賑わって楽しげな描写が良かったです。

≫ 海!山!って言いたくなるね。梅干しは山、海苔は海とか。子どもたちの弁当におかずを足す校長も楽しそうです。でも、「もどしとけよ」(P73) では、逆に校長は生徒の行動に何も介入しない。

トイレに落とした財布を拾おうと、せっせと汲み取り口をさらうトットちゃん。それを見かけた校長先生は「ちゃんともどしとけよ」と言うだけ。この一言は、トットちゃんは最後まで責任持って戻すことはできるよね?という校長先生の子どもに対する信頼とおおらかさが出ていて、好きなセリフです。

≫ なんでも危ないからとやめさせるのではなく、子どもの立場を尊重する。これはものすごく難しい。トットちゃんはトイレで下をのぞき込んで物を落としてしまう癖があって、お母さんが何度言っても治らなかった。でも、この後ふしぎとぴたりと下を覗かなくなった。財布は見つからなかったけど校長先生から大切なものを代わりにもらった。校長先生は小学校の生徒一人一人を、「ちゃんと人格を持った人間として、扱ってくれた」から(P78)

「プール」(P93)でも、校長先生は、障害のあるなしにとらわれず、自由にあそばせてくれます。運動会(P169)でもそう。校長先生オリジナルの競技が多いのは、ハンディキャップがある高橋くんが活躍するため。高橋くんはこの運動会がきっかけで、自分にすごく自信がついたと思う。

≫ 単純に優劣がつかない形で評価していますね。がんばってる子たちがみんな楽しめるように、校長はたえず考えている気がします。

それに、全体ではなく一部の生徒のことを考えて、競技を決めるなんて驚きました。

≫ 「普遍的なテーマを考えるためには、常に個人的な問題から出発しなければならない」、みたいなことを村上春樹がよく言っていますが、障害を持った子ども一人を幸せにしないで、なぜ多くの子どもを喜ばせることができるのか。実際トモエ学園の子どもたちは高橋君の活躍を喜んでいるように見えます。木の皮を売りつける詐欺師の話「元気の皮」(P265)、覚えてますか? 

かじってみて苦かったら病気が分かるという木の皮を買った話ですよね。私もあの話好きです。校長先生は「騙されてるよ、もう買ってはダメ」とは、あえて言わず、トットちゃんたちはどんな行動をとるか見守ってましたね。
恐らく、トットちゃんがみんな元気かどうか調べる邪魔をしたくないから、校長先生は何も言わなかったのかなと。

≫ それは詐欺だとすぐ教えるのではなく、買わせてみて、トットちゃんに考えてもらう。結果的にみんなが幸せだったから良かったし、後々よく考えればインチキ品を売る人だったとトットちゃんにも分かるだろうし。インチキだったとしても安価でみんなが喜んだんだから結果オーライだし。子どもを見守るのって難しいです。できることはやらせて、本当に危ない時は介入する。でも全部介入する方が楽なんですよね。


「大冒険」(P105)は、トットちゃんと小児麻痺の泰明くんの木登りの話。トットちゃんの純粋な善意が伝わりました。

≫ トットちゃんが本当に良い子だと伝わるし、本当の友情や愛情ってこういうことだと思います。足の不自由な彼をひっぱりあげるシーン。
「でも、泰明ちゃんは、もう、トットちゃんを信頼していた。そして、トットちゃんは、自分の全生命を、このとき、かけていた。」(P110 )
なんて描写は、どんなラヴ・ストーリーより美しい。誤解を恐れずに言えば、これ以上ないほど官能的だと思いました。
≫ ドアの向こうで生徒のために怒っている校長先生、トットちゃんが「あいたい」(P220)と思った。「校長先生は、ほんとうにわたしたちの友だちだと、いつもよりもっと強く感じたからだった」というトットちゃんの気持ちも同じです。

「しっぽ」(P215)ですね。明らかな身体障害がある高橋くんに対して「しっぽもあるかな?」と不適切な発言をした教師に、校長先生が声を荒げて怒る話。校長先生はなにげなく楽しく子どもたちと会話しているようでも、彼らを傷つけないように、トラウマになるようなことを言わないようにとても気をつけているんだなと思った。職員室ではなく、目の届かない台所で叱るよう配慮するけど、結局トットちゃんたちに見られてる…。

「おさげ」(P201)は、トットちゃんが、憧れのおさげをしたら、同級生に引っ張られて嫌な思いをした話。校長先生がその子に「女の子に親切にしなければ」と厳しく怒って、彼もちゃんと謝った。ちゃんと謝ることができた彼も良い子だと思いました。

≫ 「泣くなよ、君の髪は素敵だよ」と歯の抜けた口で、歯の浮くようなセリフを、気にせず笑顔でいう校長先生、たまらないですね。お父さんだってお兄ちゃんだってこんなこと言ってくれやしない。

「温泉旅行」(P123)の話で、トモエの子達が公共の場で落ち着いていたのは、「小さい子や身体が弱い人に優しくしなきゃいけない、人の迷惑をかけてはいけない」と学校で自然と学んだから。

≫ ここで再確認されるけど、普通の学校では暴れ回って問題児だったトットちゃんが、形式に縛られず自由に自主的に勉強できるトモエ学園では、とたんに落ち着いて座っていられるようになった。あるべき教育の姿について、とても示唆的です。

旅行中、船に乗っている時、船酔いする子が多い中、上級生の子が笑わせようと「オットット」と言いながら左右行ったり来たりするシーンが好き。彼なりの優しさが伝わる。

≫ おどけてる人を叱るだけの先生もいるけど、表面的な行動だけでなく、それが子どもたちにとって、どんな意味があるか、たえず考えたいですね。

「それからさぁー」(P153)で、昼食のときにひとりの生徒がみんなの前でお話ししようと決まったが、ある日、ある男の子が「しない、話は何にもない」と言い放つ。そんな彼に校長先生は叱らず、君は朝何したの?と尋ね、それがきっかけで彼はスラスラと話すようになる。

≫ 校長先生が、子供の気持ちを引き出すやり方はとても自然です。

校長先生はその際、面白い話をするのが偉いのではなくて話したいことが見つかったのが大切だと諭す。私たちは何かにおいて「結果」を重視するが、その過程をあまり気にしない。過程の中にこそ大切なことがあるんじゃないかって。

≫ 結果を重視した結果が、極端な話、大人がやる会社の粉飾決済や不正な取引ですからね。数字さえ合えばいいという。でもそのことで誰かが幸せになるわけじゃない。

「マサオちゃーん」(P196)で、お母さんがトットちゃんに、あの人は朝鮮人だからと言って区別せず親切にしてあげてと諭すのも印象的でした。もしお母さんが「〇〇人は悪い人」とか言うような人だったら、トットちゃんの性格や価値観はかなり変わってたかも。

≫ いつも「チョウセンジン」と罵られていたから、日本語の意味も分からず、それを罵り言葉だと思っていたマサオ君のことを思うと涙が出る。彼を心配して探す母親とともに、すごく映像でイメージされるシーンです。

「英語の子」(P277)もとても衝撃だった。当時、敵対していたアメリカ出身の子を迎えた校長先生はただものではない。その外国の子と、トットちゃん達が国や人種なんか気にせず「ビューティフル」と声を出すシーンは、きっと美しい光景だったでしょうね。子どもが人種を気にせず仲良くなれるのに、どうして大人のほうが気にしてしまうんだと鬱々する。

≫ 子どもの考えと大人のそれと、どっちが高尚かって、それはたぶん子どもの考え。多くの場合、大人は悪い意味での損得に基づいているから、残念だと思う。
≫ 「ヴァイオリン」(P302 )で、軍歌を演奏すればお金がもらえてトットちゃんに食べ物を買ってあげられる。けどお父さんは自分の芸術を戦争に利用されたくない。そんなお父さんの気持ちが分かるからトットちゃんは「平気!私もパパのヴァイオリン好きだもの」と言います。
≫ 「お見舞い」(P260 )で、小学生たちが負傷兵の慰問に病院に行って歌を歌う。皆が歌う歌を知らなかったトットちゃんが、誰も知らないであろう「トモエ学園の歌」を一生懸命歌う。その姿を見た兵士が涙を流すシーンも印象的でした。

「ボロ学校」(P250)で、トモエ学園の子達が「トモエは良い学校」と歌いながら学校周りを歩くシーン、校長先生は本当に嬉しかったんだろうなと思って、胸がきゅーんとなったし、「さようなら、さようなら」(P325)で、戦火で燃えているトモエ学園を見て「今度はどんな学校を作ろう」と息子に話しかける校長先生。戦争という辛い状況の中でも、教育に対する強い思いが消えなかった。戦争は色んなものを壊すけど、人の心の中にある大事なものは壊せないと思いました。

≫ 校長先生がトットちゃんにくれた大事なものは目に見えないし、誰にも壊せないから、それはあなたも、わたしも、みんなにとってもそうなんだと思います。

この本は、心のなかにある大事なものとか、自分の強みを壊されることなく、それを活かして自分らしく生きてというメッセージがあるのかもしれないと、今、思いました。

≫ トットちゃんは最初は1年生で公立小学校をクビになるくらい、他の人たちから否定されていました。子供のころの彼女は、ひょっとしたら、今なら知能の高い自閉スペクトラム症あるいはADHD、ないしその近縁の発達障害の傾向とみなされたかもしれません。が、発明王エジソンがそうだったように、当時の普通の教員からは1ミリも理解されなかったはず。ただ、困った子だとしかみなされない。
社会の無理解に悩まされることはあります。この作品でも、外国人差別、身体障がい者差別、もっと個々人の能力や性差にまつわる微妙な差別、いろいろな問題提示がされています。そういった問題は、その当時から現代までなかなか解消されません。
自分らしく生きることはなかなか簡単なことではないし、誰もがトットちゃんのようにやさしく強く、いられるわけではありません。
だから、この本の後書きで詳しく書かれているトモエ学園の仲間たちのような友達が必要です。それは簡単なことなようで、案外難しいのです。「なんだそんなことか!」と言える人は幸せです。家族や友人の中に、たった一人でもいい、信用して、いざというときなんでも相談できる相手がいてほしいです。

小児麻痺の泰明くんが死んだとき、トットちゃんが

「いつか、うんと大きくなったら、また、どこかで、会えるんでしょう。そのとき、小児麻痺、なおってるといいんだけど」(P295)

と思ったように
お互いが、この場所、この時間、置かれた環境、病気、あらゆる条件を越えて、仲良く助けあえるように。